さんゆうねっと

お手伝いハルコの食の森羅万象

長年食を多面的に観察してきた後藤晴彦(お手伝いハルコ)が、食文化の現在過去未来を考察します。

昭和の餅つきは大変!?

ふと、子どもの頃の正月はどうしていたんだろうと思いました。はるか昔、東京オリンピックの数年前の地方都市での話ですが、年末は大体29日に大掃除で、たいして役に立たないけれど、子ども達も片付けの手伝いをします。正月が来るのが楽しみな時代で、大晦日の晩は遅くまで起きていて紅白歌合戦も観られるし、お年玉が貰えるし、正月三が日はのんべんだらりと勉強しなくても怒られないしと、子どもにとってはパラダイスだったのです。

そして、正月と云えば、餅。

12月30日に、近くの親戚の家で正月用の餅つきを始めたものです。朝から蒸篭(せいろ)で何回も餅米を蒸して、庭に据えられた臼(うす)に移し、何度も、何度も杵(きね)で餅をついている風景は、今でも鮮明に覚えています。三家族が正月に食べる餅なのでかなりの量がありますから、父親や叔父達が餅を搗き、母親や伯母らが杵の合いの手をつとめていました。ペッタン、ペッタンと、次から次へ餅が出来上がっていくのは、観ていてもとても楽しい風景でした。

お供え用の丸餅を作るのには、大きな木枠の箱の中に片栗粉をまぶし、そこに熱々のまだ湯気の出ている餅を流し込んで平にするのですが、冷めてしまう前にやらなくてはならないので、子ども達も一緒に小さな手でならしていきます。普通の白餅に豆を入れた豆餅や胡桃餅と、色々工夫して作っていたのですが、具の入った餅は粗熱が取れたら切り分けて、白餅はそのまま切らずに木箱に入れておきます。午後になって餅つきが終了すると、皆で搗き立ての餅を食べるのですが、これがとても楽しみでした。きな粉餅が多かったような記憶があります。


注連縄(しめなわ)を新しくして、大黒様と恵比寿様の御幣(ごへい)を取り替えた神棚に餅をお供えし、大晦日を迎えるのですが、地方の風習として、この晩は「年取り魚」の鮭を焼き、普通のご飯でした。お節料理は元旦までお預けなのです。

元旦には、朝一番に汲んだ水、すなわち若水(わかみず)で雑煮を作るそうですが、流石に水道の水でした。雑煮を1杯食べてから、さらに餡ころ餅を食べるくらい、餅が好きだったものです。昼になると、火鉢に餅網をのせて餅を焼くのですが、少し焦げてふくれてきたらひっくり返すのは子どもの仕事でした。海苔で巻いたり、納豆をのせたりして食べるのですが、熱々の餅にバターをのせて醤油をつけて食べたのが旨かったことを、おぼろげに思い出しました。

しかし、三が日過ぎ、餅も段々固くなってくると、包丁で切るのも一苦労。松が取れる頃には、切り餅にして、保存のために水に浸け、数日毎に水を取り替えます。その頃になると、さすがに餅も食傷気味で飽きてきたものです。最後のカチカチにヒビの入った餅は、母親が油で揚げてかき餅にして終わるのでした。冬休みが終わり(東北は冬休みが長いのです)、クラスでどのくらい餅をいっぺんに食べたかと話題になると、いっぱい食べた子はみんなの尊敬を集めていたものです。その頃の小学生って単純でしたね。

俗に一度に食べる米の量は「一合雑炊、二合粥、三合飯、四合寿司に五合餅」と言いますが、どのくらい食べていたのでしょうか。正月だから餅を食べるという行事は段々と少なくなり、逆に餅は一年中食べることの出来る食品となってしまいましたが、平成最後の正月は餅を食べながら、さらに遠ざかる昭和の味を楽しむとしましょうか。